後の世と 聞けば遠きに似たれども 知らずや今日も その日なるらん
仏さまの種まき

後生(ごしょう)といえば、死んでからさきの事と思ておりますが、私は、もっと広い意味に解しては何うかと思います。

十年後も後生であります。
一年後も後生であります。
一と月後も後生であります。
一時間のちも、一分のちも後生であります。

私達は今の行動が、将来にどういう影響があるかを考えて、その行ひを反省し、つつしまねばならぬと思います。それは現在が原因となって、将来の結果を招くからであります。

よろしく私共は、現在の暮らしをわざと乏しくしてでも、将来の大計画を確立せねばなりません。将来の計画がなりたたぬ生活ならば、それは本当の生活とはいはれないで有りましょう。

私達は心をおちつけて、明日は何うなるかを考へ、そこに歓びと安心とを見出しうる生活こそ望ましい生活ではありませんか。

歓びと安心をうみ出す生活が、後生の一大事で、何をもって、この後生の一大事を体得すべきか、宿題中の宿題ではなかろうかと思います。

以上は「第十七世晋亮法印」が毎月書き続けた伝道紙『力の泉』より掲載いたしました。